昭和15年(1940年)4月1日、本校は国策にそって紀元2600年(1940年)記念事業として、愛川町から借り受けた10町歩の山林を「学校報国林」として管理した。
まず、学校当局は山林の整地作業から着手した。そして植林である。それからの経過を以下追ってみると、次の通りである。
昭和15年(1940年)
4月18日 3年生146名 植林予定地の整地作業
4月20日 4年生140名 同上
4月24日 5年生144名 同上
5月 1日 2年生151名 杉苗植付(2,000本)
5月 8日 3年生151名 同上(2,000本)
7月24日〜25日 5年生 108名
田代・清雲寺で自炊宿泊して杉の下刈作業に従事
7月26日〜27日 4年生 102名 同上
なぜか1年生の参加記録はない。
翌昭和16年(1941年)は、4月15日から23日まで、5年生から2年生までが、それぞれ1日ずつ造林作業に出動した。また7月19日と9月4日には、3年生以上が植林奉仕活動に動員され、両日とも残留組は開墾地の整理に携わった。
昭和17年(1942年)、やはり新年度の4月早々半原の学校林に出動した。同月20日(5年生)、28日(4年生)、30日(3年生)とそれぞれ出動していった。この時期の朝礼で校長は、空襲について訓示している。5月には5年生から2年生まで、順に1日ずつ植林作業にでかけている。昭和16,17年(1941〜1942年)の両年度は生徒を動員して、植林作業に全精力を注ぎ込んだのである。「植林したのは、10町歩のうち、2町歩で檜2,000本、杉4,000本を植えた」と「同窓会報1号」は伝えている。
元厚木高校教諭で同窓会顧問の難波春美(中33回)は、創立90周年記念の資料の中で「愛川町と半原南山980番地の約10町歩の山林について、以後50年間植林その他の管理を行なうという分収契約を結んだ。そのため、昭和15年以後の卒業生は在学中、1回は植林や下草刈参加させた。昭和28年(1948年)以降の卒業生には、1年入学時の1学期中1日は、現地集合でノコギリやカマ持参で枝打ちや下草刈の実習をさせている。毎日勉強々々勉強の生徒たちにとっては、1日を深山幽谷で汗をかき、空気の清らかなことなどが貴重な想い出の一つとして、心に深く残っていることと思います。」と語っている。
昭和18年(1943年)は、夏休みの7月下旬に1年生は2日、2年生は1日、愛川町役場前に、2班に分かれて7時30分と8時30分集合し、下刈に出動している。翌19年は6月に1〜3年生が1日ずつ動員された。以後戦局の変化、敗戦と続いた2〜3年間は、学校林への奉仕は中止されていたようである。
昭和17年入学の柳川和彦(中41回)は、1年生の時「半原の山での下刈、鎌と弁当を持って歩いて半原まで行き、植林済みの山の草を刈るという作業だ。急傾斜での作業で虫も多く、きつい作業だった。生徒の一人が蝮に指をかまれた。先生はすぐに、厚木の医者に連れていき指を何センチか切る手術ですんだようだった。救急車などない戦時中のこと先生の対応は、素早く完全で、今考えると素晴らしいものだったと思う」と回顧文を寄せてきた。また、同期の清水豊久も想い出の一つに「半原にある学校林の下草刈と薪集めがある。暑い時期の往復徒歩であり、また不慣れな草刈作業のため皆、疲れ果てていた。まさに、質実剛健の気風を養う訓練であった。生徒が蝮に噛まれる騒ぎがあった」と同期の会誌の中で述べている。
最後に本校化学の教諭中村好一(中22回)は、自分史の中で「学校林は町役場から30分位のところにあった。集合は、この役場を上がった坂上の山へさしかかった所で、運動帽をかぶり、網のサックに弁当を入れ、水筒を肩に巻脚絆という出で立ちの生徒が自転車や徒歩で集まった。険しくて、石が落ちないように十分注意しながら、登らなければならない所もあった。落ちてきた石で、横沢信男(化学)先生は足を傷つけられたこともあった」と記している。
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